雑記録

私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではなかろうか

W.G.Sebald

W.G.ゼーバルトという作家をご存知だろうか。1944年に生まれてノーベル賞候補と目されながら2001年に自動車事故によって不慮の死を遂げた作家である。構築されたきめ細やかな文体の持ち主だ。白水社が翻訳で著作集を出版している。彼の小説には様々な図や絵画や写真が添付されており、即ち彼の小説は人々の記憶やアイデンティティに関するもので、それは単なる自分史ではなく、例えば第二次大戦のような人々を引き裂く社会情勢の中で何が失われ何が痕跡として残ったかを問うような、社会的なものである。

小説のような紀行文のような随筆のような、捉えがたい息の長い散文が様々な人々のエピソードを綴ってゆく。多重に設けられた間接話法が登場し、記憶が記憶を呼び、時間と空間の迷路に迷い込んだような感覚に襲われる。その迷路は廃墟にも似ていて、彼の作品は迫害され打ち捨てられたものを大切に掬い上げてゆく過程が描かれていると言ってもいい。細部まで描写された逸話の連鎖に、読んでいてどういう事だろうと思うかもしれないのだが、ゼーバルトが志向したのはそのような微小な出来事の連鎖によって全体的な歴史が進行してゆくのであってそのエピソードを語り直す事によって歴史の意味を問う、という事である。

ゼーバルトは小説だけでなく評論やエッセイも書いているのだが、彼が取り上げた作家はほぼ全員時流に取り残されたアウトサイダーで不幸な人生を送り、孤独な中書く事に取り憑かれたように作品を残していった人々であった。そのような人々だからこそ、彼らの生きた時代がどのようなものであったのかを偏りなく眺めることができたという事だろうか。そういう訳で彼の文章にはどこを読んでも暗然とした調子があるのであるが、しかし暗かったのはゼーバルトではなく歴史の方であった。おすすめは、何をおいても遺作となった『アウステルリッツ』である。彼の小説の例によってあらすじは説明しにくく、その説明の意味もほぼ無いのだが、アントワープで出会った建築史家のアウステルリッツ(人名)の半生を辿ってゆく中で第二次大戦の記憶が浮かび上がってゆく、というものである。アウステルリッツの記憶は時代に翻弄された人々の記憶が再構成されたもので、歴史と個人の関係がそこからまざまざと映しだされるのだ。まさに傑作である。こういった作家を読むのもいかがだろうか。

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